レコード店の松田です。 3月ももう終わりになりますが、3月10日は何の日かご存知ですか? 「砂糖の日」「ミントの日」などもありますが、なんと「ツイストの日」なんだそうです。 ロックンロールの腰をひねって踊るあのダンスのツイストです。 詳しく調べてみたのですがあまり情報が無く、ちゃんとした経緯はがわからなかったのですが、1962年3月10日から日本のツイストブームが始まったらしく記念に「ツイストの日」になったようです。 なので今回は「日本のロックンロール、ツイストブーム」について書かせて頂きたいと思います。 |
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エルビス・プレスリーの登場、映画「暴力教室」の公開により、日本にもロカビリーの波が押し寄せて来ました。 それまでジャズ喫茶や基地のクラブで米軍相手に演奏していた、カントリー・ウエスタン歌手はド派手でかっこ良いロカビリーにシビれ多数のミュージシャンがロカビリーをやりだしたそう。 それに目を付けた渡辺プロダクションの渡辺美佐(のちにロカビリーマダムと呼ばれる)は「ロカビリー歌手を集めて、コンサートをやれば絶対にあたる!!」と確信し、元々東京ビデオホールで開かれていたウエスタン・カーニバルを、大きな会場である日本劇場に移し1958年2月に開催。 コレが大成功し9日間で4万522人を動員。 これが日本にロカビリー旋風を巻き起こす「第1回日劇ウエスタン・カーニバル」となりました。 |
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まずはウエスタン・カーニバルの成功によって登場した人気ロカビリアン「ロカビリー3人男」について紹介します。 |
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平尾昌章(現・昌晃) 「恋の片道切符」「リトルダーリン」などをカバー。 とくに流行ったのはオールスター・ワゴンのメンバーが作った「星は何でも知っている」、60年に発売した自作の「ミヨちゃん」はザ・ドリフターズなどにカバーされ有名になった。 当時のブロマイドからロカビリーいちの衣装持ちだったと推測されるほどオシャレさんで当時の衣装、靴などは自分でデザインして仕立てていたそうです。 |
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ミッキー・カーチス 最初のシングルはポール・アンカ「君は我がさだめ」 平尾、山下に比べアーティスト志向が強かった為か、レコードのヒットには恵まれず、発売枚数も極めて少ない。その後ロカビリーでは飽き足らなかったミッキーは本格的なジャズ志向のバンドなどを結成しナイトクラブなどに出演していました。 その他映画の出演や、テレビの司会、ラジオのレギュラー番組を持つなど様々な分野で活躍。 「ミッキー」という名前は、赤ん坊の頃耳が大きくミッキーマウスみたいだったことから祖母が命名したそう。 |
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山下敬二郎 他の2人より無意識の、初期衝動のみで歌っているようなキャラクターはもっともロックスターらしかった。 58年4月「ダイアナ」「バルコニーに座って」のシングルを発売し大ヒット! 同年8月には雑誌のウエスタン・ロカビリー歌手人気投票で1位になるほどの人気っぷり。 本人曰く「トニー・カーティスのリーゼントのスタイルを日本で初めて取り入れた男」と自負している。 |
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ロカビリー3人男以外にもたくさんのロカビリアン達が活躍しました。 その中には日本製プレスリーの第1号とも呼ばれ、NHKの紅白で初めてロックンロールを歌った男、小坂一也(第1回ウエスタンカーニバルのに出演予定だったが、前日デューク・エイセスと行ったスキー旅行で骨折し出演できず。もし出演していたらロカビリー4人男になっていただろうと言われる程の人気)や、ロカビリー3人男の硬面の50年代ロックンローラーとは明らかに異質な親近感のあふれる風貌で人気だった、後にピンク・レディを育てた人物とも言われる飯田久彦、「あしたのジョー」の主題歌でヒットした尾藤イサオなどがいました。 そして今や日本を代表するアーティストの坂本九やムッシュかまやつもロカビリー歌手としてデビューしました。 |
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学生時代弁護士を目指していた坂本九だったが、初めて聴いたエルヴィス・プレスリーに衝撃を受け、気付けば音楽の世界に。 ウエスタン・カントリーの流れからロカビリーを歌う様になった他の歌手達とは違い、坂本九は純粋にプレスリーが最初の衝撃であり神だったため、初期のころはプレスリーのナンバーばかり歌っていました。 58年8月ウエスタン・カーニバル初出演の際には新品のギターをぶっ壊すという熱演でロックンローラーそのもの! 今の「3枚目の、皆から愛される国民的歌手」のイメージとは全く違う絶叫系ロッカーだったそうです。 |
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ロカビリー3人男に続く「3人ヒロシ」の一人として売り出されたのが、かまやつヒロシ。 「おお、キャロル」などの有名なアメリカンポップスも歌っていますが、本人はロカビリーはあまり好きではなくもっぱらウエスタンばかり歌っていたそう。 日劇ウエスタン・カーニバルには58年12月〜60年5月までに8回連続出場。 その間に19枚のシングルを出しています。 後に有名なGSバンド、ザ・スパイダースのゲストシンガーとして活動。 64年頃正式メンバーになり、そこからの大活躍は誰しもが知っているほどの大成功でした。 |
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その後、チャビー・チェッカー「ザ・ツイスト」の発売によりツイストというダンスがフランス・パリの若者の間で大流行。 その流行っぷりがアメリカで大きく報道され世界中を巻き込みツイストブームが起きました。 勿論、日本でも大流行し、キングレコード主催の「ツイスト発表会」(スマイリー小原、中尾ミエ、伊東ゆかりなどが参加)や各地でツイスト講習会やツイスト大会などが行われました。 この時代の流れから多くのロカビリー歌手達がツイスト関係のカバーレコードを競って出し始めました。 |
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「ツイスト男」の異名を持つ藤木孝は、62年のウエスタン・カーニバルで初めてツイストの歌をうたい、日本のツイストのパイオニアとして多くの曲を吹き込みました。 カバーの「ペパーミント・ツイスト」や「聖者の行進」をツイスト化したもの、和製の「踊れツイスト」など多くのツイスト関係のレコードを発表。 黒づくめの衣装、セクシーな身のこなしのツイストは天下一品だったそう。 同じく「ペパーミント・ツイスト」や、民謡のさくら音頭をツイスト化した「さくらツイスト」を歌った伊藤照子は「ツイスト娘」と呼ばれました。 中尾ミエも「可愛いベイビー」でデビューするまでは「ツイスト娘」として色んなイベントに借り出されていたそうです。 |
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ツイストブームの中、日本人作家による和製ツイストもたくさん発表されました。 代表作としてはとっても特徴的なコーラスの入った小林旭の「アキラでツイスト」や清原タケシの「ツイスト・パーティー」などがあげられます。 その他、女性のしゃべり言葉である「○○でさ」「〇〇のよ」からタイトルがきているスリー・ファンキーズの「でさのよツイスト」や、ジュリー藤尾のとても不思議なカタカナの歌詞にソーラン節が途中で出て来たりする、そしてツイストを踊るには少し無理のあるようなメロディーがついた「インディアン・ツイスト」など一風変わったものもありました。 美空ひばりなどの大物の歌手も「ひばりのツイスト」「ブルー・ツイスト」「ロカビリー剣法」などツイストブームに便乗した楽曲を発表しました。 |
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その後ビートルズやベンチャーズなどの登場によりロカビリー、ツイストブームが終わり、60年代中頃からエレキブーム、そしてGSに時代は移り変わっていきます。 しかし50年代後半からのロカビリーブームは日本で初めてのロックの流行、そしてツイストは日本初めてのダンスブームだったのではないかと思います。 是非1度、日本のロックンロールのルーツとして日本ロカビリアン達の音楽を聴き、そしてツイストを踊り日本のロックンロールを楽しんでもらえたら嬉しいです。 |