こんにちは。ハイファイ堂レコード店山本です。 季節の上では晩春にあたると思うのですが、もう真夏を思わせる暑さが続いています。梅雨を迎えればまた多少は変わるかと思いますが、体調を崩さず頑張っていこうと思います。 |
|
さて突然ですが、「ミッドセンチュリー・アメリカ」という言葉があります。この言葉は20世紀中葉(だいたい1950〜60年代頃まで)のアメリカポピュラー音楽を指すときに使われたりしますが、この頃のアメリカポピュラー音楽文化の豊穣さは本当に唸らされるばかりです。 特に50年代のNYの音楽シーンに対しては強い憧憬を抱いてしまいます。当時の時代背景を調べると、言わずもがなモダンジャズが黄金時代を迎えようとしていた時期でした。それと同時にもう一つの音楽がNYを中心として世界中を席巻していました。それがNYラテン、いわゆるマンボ音楽ブームです。 今をさかのぼること半世紀以上前の1950年代のNYのブロードウェイを彩るラテン・ナイト・クラブを舞台に"マンボ・キングス"と称された3人の男達と、キューバ発メキシコ経由で満を持してNYに乗り込んだもう一人の男が毎夜熱い演奏を繰り広げ、エネルギーと緊張感に満ちたNYラテン・シーンを作り上げていました。 今回はその時代を代表するアルバムを紹介しながら当時のシーンのお話でも出来ればと思っております。では、しばしお付き合いください。 |
|
|
|
まず初めに紹介するのが、前述のマンボ・キングスの一人、"炎のティンバレーロ"と呼ばれたティンバレス奏者ティト・プエンテ率いるティト・プエンテ楽団のアルバム「キューバン・カーニヴァル」です。 ティト・プエンテはラテン・アメリカを代表する演奏家で、1923年4月20日にNY屈指のヒスパニック居住区「エル・バリオ」にてプエルトリカンの両親の間に生まれました。 早熟な天才で13歳から演奏活動を始め、25歳の時に自らの楽団「ピカデリー・ボーイズ」(プエンテ楽団の前身)を立ち上げます。 ティンバレス奏者としてティト・プエンテはアンサンブルの中心で派手なアクションを伴うソロを披露するのがトレードマークでした。プエンテはそれはそれまで地味な役割だったティンバレスを一躍ラテン音楽の花形パートに引き上げた革命児として亡くなる直前まで精力的な活動を続けました。 「キューバン・カーニヴァル」はティト・プエンテ初期の傑作と名高い一枚で、モンゴ・サンタマリア、キャンディトなどジャズにも縁のある名手を従え、マンボやラテン・ジャズの素晴らしい演奏を繰り広げています。プエンテ御大自ら演奏するティンバレスがアンサンブルのアタックとなり演奏が盛り上がっていく様が圧巻です。 |
|
|
|
次に紹介するのが、もう一人のマンボ・キングス、NYラテン随一の伊達男と呼ばれた歌手、ティト・ロドリゲスです。 ティト・ロドリゲスは1923年プエルトリコの首都サン・ファンで生まれました。幼少の頃から音楽に触れる機会に恵まれ、一足先にNYに渡り歌手として成功を収めた兄に憧れ、自身もNYで音楽家として成功することを目指すようになります。 下積み時代を経て1940年代末に自身の楽団を結成します。 ティト・ロドリゲス楽団の最大の魅力は歌手であるティト・ロドリゲス自身の歌声でした。 上に挙げたアルバムは「ベスト・オブ・ティト・ロドリゲス」という作品です。ジャケットに写っているのがティト本人でそのルックスと歌声で多くのラティーナ達を魅了しました。 いつか機会があれば是非聴いて頂きたいのですが、ティト・ロドリゲスのハスキーで艶のある歌声はラテン男性ヴォーカルの王道といえる歌い口で、この良さが分かるとラテン・ミュージックの奥深い世界によりハマるようになります。 |
|
|
|
続けて紹介するのが同じくティト・ロドリゲス楽団「スリー・ラヴス・ハヴ・アイ」 "私の好きな3つのリズム"という意味でラテン音楽の代表的なリズムであるマンボ、チャ・チャ・チャ、グァングァンコー(ワワンコー)を取り上げた作品です。ティト・ロドリゲス楽団全盛期の魅力を存分に味わえます。歌も演奏もタイトでダンサブル、後に誕生するサルサ・ミュージックの原型を作り上げたといわれています。 因みに最初に紹介したティト・プエンテとティト・ロドリゲスは激しいライバル関係にあったようです。 同じに年に生まれ同じ名前を持つ者同士、食うか食われるかの人気商売の中で生きる二人の間に何か思うことがあったのか、コンサートの看板や広告でどちらの名前が上にあがるかでよく揉めていたそうです。 そんな二人でしたが、1973年、50歳という若さでティト・ロドリゲスが逝去してしまいます。自宅で葬儀が行われた際、いち早く駆けつけたのが20年に渡り会話することさえ拒絶していたティト・プエンテだったと言われています。 二人の関係は深いところで繋がっていたのかなと思わせる印象的なエピソードで、彼らの「アイツには負けられない」という強い思いが素晴らしい作品を生み出す原動力になってあの時代を作っていたのかなと思います。 |
|
そしてマンボ・キングス最後の一人が"ラテン・ダイナマイト"と呼ばれたキューバ人男性歌手、マチートです。 マチートはマンボ・キングスの中でも最も歴史が古く1940年に名門ジャズ楽団の音楽監督を務めたマリオ・バウサーと共に「アフロ・キューバンズ」というグループを結成しNYで演奏活動を始めます。 マチートが目指したのは文字通り"ジャズとキューバ音楽の融合"で、マチートの類稀なパフォーマー/歌手としての存在感とジャズ・オーケストラの経験を活かしたマリオ・バウサーのアレンジメントを施されたアフロ・キューバン・サウンドは後に発展するラテン・ジャズの原点と言われています。 そんな3人のマンボ・キングスと後述するもう一人のマンボ・ミュージックを代表する人物、ペレス・プラードがお互いしのぎを削り合い50年代のNYラテン黄金時代を作り上げていました。 |
|
|
|
最後に紹介するのがキューバ発メキシコ経由でNYに乗り込んだペレス・プラード楽団です。 おそらく最も知名度のあるラテン音楽家といえるでしょう。ペレス・プラードは1916年にキューバに生まれ16歳から本格的に音楽活動を始めます。 1940年代頃まではメキシコやベネズエラなどアメリカ大陸中南部地域のラテン諸国で精力的に演奏活動を続け50年代に入ると満を持してNYに乗り込み演奏活動を始めます。 「マンボ・マニア」と題された本作、そもそもマンボとは何ぞやという話になりますが、マンボとは、キューバ音楽の中でも室内楽的要素の強いジャンル「ダンソーン」において曲の間に倍のテンポで演奏される部分を独立して楽曲化したものと言われています。ペレス・プラード一人がマンボを作り上げたということでは無く同時代の様々な演奏家達が試行錯誤しながら形成された音楽と言えます。 ペレス・プラードと言えば真っ先に思いつくのが「アーッ・ウッ」という掛け声とダンサブルでユーモアのあるラテンサウンドだと思いますが、確かな音楽的素養と先進的なセンスを持ち合わせた優れたピアニスト/指揮者でした。本作はそんなペレス・プラードの知的なセンスとウィットに富んだアレンジ、自身はピアニストなのにピアノの音は抑えて洒脱なホーン・セクションを強調させるというプラード楽団独特のマンボ・サウンドが味わえます。 |
|
|
|
そんな愉快なマンボおじさんイメージを覆すペレス・プラードのもう一枚のアルバムがこの「ハヴァナ午前3時」。 優れたパフォーマーでもあり同時に優れたアレンジャーでもあったペレス・プラードの本領発揮といえる内容で、「南京豆売り」「ベサメ・ムーチョ」などラテン音楽ブームを巻き起こした名曲や、映画音楽を彷彿とさせるオーケストレーションを施された「モザイコ・クバーノ」など、革命前キューバの歓楽街ハヴァナに思いを馳せるペレス・プラードの最高傑作と名高いレコードです。 1950年代のNYを彩ったラテン・サウンドは60年代に入りサルサ・ミュージックというビッグバンを生み出すきっかけを作りました。改めて聴くと本当に洒脱で洗練された音楽なのだと思いました。特にマンボ・キングス達はニューヨーカーでもあるので熱狂的な中にもクールさを兼ね備えた都会の音楽といった感じです。一方ペレス・プラードは洒脱さでいえばマンボ・キングス達に譲るものの、いなたさ(泥臭さ)故の力強さとラテン音楽特有の熱狂でダンサブルなサウンドがまた魅力的です。共通しているのはやはり同時代のジャズに強い影響を受けていることで、お互いが切磋琢磨しながらミッドセンチュリー・アメリカの豊穣なアメリカポピュラー音楽文化を生み出していたのだなと思いました。もし興味を持たれた方がいれば是非聴いてみてください。ラテンとジャズはこういう所で繋がっていたのかという新しい発見が出来ると思います。 今回のメルマガはこれで終了したいと思います。最後までお読み頂きありがとうございました。 |