こんにちは、レコード店の松田です。 今回はこんなギラギラと暑い夏にピッタリの「サーフ・ミュージック」について書かせて頂こうと思います。 |
|
「サーフ・ミュージック」と一口に言っても年代によりまったく印象の違うジャンルであり、近年ではアコースティック・ギターを中心としたオーガニックなサウンドの楽曲が多いようです。今回は60年代に流行した「サーフィン・ホットロッド」ブームに乗って現れた世界初のサーフ・ミュージックについてご紹介しようと思います。 60年代のサーフ・ミュージックでも、The beach boysやJan & deanのように歌入りの甘いコーラスワークが特徴のジャンルと、もう一つは日本では「テケテケ」と呼ばれるエレキ・ギター中心のインストゥルメンタル・バンドの2つあります。 今回はこの「テケテケ」のサーフィン・ミュージック、エレキブームに焦点を絞ってのご紹介です。 |
|
60年代のサーフ・ミュージックと言えば、ギターの高速ピッキングと当時開発されたばかりのリバーブユニットを使い演奏されたインストゥルメンタル曲であり、あたかもサーフィンの様に波に乗って流れて行く爽快感やスリルを音楽で表現したもの。 60年代初期のまだビートルズがアメリカにせめて来る前の数年間、西海岸の若者を中心に流行した音楽ジャンルです。 では代表的なバンド、アーティストをご紹介します! |
|
Dick Dale[ディック・デイル] ギターのアンプのリバーブをフルにし、低音弦をスライドさせてトレモロピッキングを行う、トレモロ・グリスダウン奏法(これが日本で「テケテケ」と呼ばれている奏法です)を編み出しました。サーフィンやホットロッドと言われるギタースタイルを確立し「キング・オブ・サーフ・ギター」と呼ばれるほど、「サーフ・ミュージック」の世界にはなくてはならない存在となりました。 61年彼の父の所有するレーベル「デル・トーン」から最初のヒット曲「レッツ・ゴー・トリッピン」を発売。 そして1番有名なのはやはり62年に発売された「ミザルー」でしょう! 元はギリシャの歌詞入りのダンス曲で、41年にNick Roubanisがジャズのインストゥルメンタルにアレンジ、62年にディック・デイルによりサーフ・ミュージックにアレンジされました。 後に映画「パルプフィクション」や「TAXi」シリーズに使用されリバイバル・ヒットしました。 70年代にはガンを患ってしまい闘病生活をしていましたが、80年代ガンを克服し活動を再開。 現在も現役で活動されています。 |
|
THE VENTURES[ザ・ベンチャーズ] 日本ではサーフィン、エレキ・インストと言えば、真っ先にザ・ベンチャーズを思い浮かべる人がほとんどと言っても過言ではない程、日本のポップスシーンに大きな影響を与えたバンドです。 ザ・ベンチャーズは1959年結成のアメリカのバンドで、60年代に発売した「ウォーク・ドント・ラン」が地元シアトルのラジオのニュース番組のテーマに使われたことがキッカケとなり大ヒットしました。 1965年の2回目の来日で日本での人気にも火が付き、日本に大エレキブームを起こしました。 66年に加山雄三の「君といつまでも」のカバーをしたことをキッカケに60年代中盤〜70年代にかけて日本を意識した曲を多く作り、当時から現在に至るまで来日ツアーを定期的に行っています。 (今年も今月から9月にかけてジャパンツアーを行っています) アメリカのバンドではありますがインスト主体のバンドであるため言語の壁を乗り越え、分かりやすく日本人の心にもなじみやすい楽曲が受け入れられました。アメリカよりも日本での評価の方が明らかに高く、日本におけるレコードの総売上は4000万枚を越えており、アメリカよりも日本で得た収入のほうが圧倒的に多いそうです。 |
|
The Astronauts[アストロノウツ] 1961年〜68年まで活動したエレキ・インスト・バンドで、元々はロックンロールのリバイバル・バンドとして活動していました。 RCAのオーディションを受けた際「サーフ・ミュージックは演奏できるか?」と問われ、サーフ・ミュージックなんて全く知らなかった彼らでしたがその場の雰囲気で「できる!」と回答。 RCAの契約を得た後、必死でサーフ・ミュージックを練習しレコーディングに臨んだそうです。 彼らの大ヒット作は、やっぱり「MOVIN'」でしょう。 「太陽の彼方に」という邦題で、64年にタカオカンベ訳による「ノッテケ ノッテケ ノッテケサーフィン」という絶妙な歌詞がつけられました。藤本好一歌唱、寺内タケシとブルージーンズ演奏によりカバーされ日本でも大ヒットしました。 その後72年にゴールデン・ハーフがカバーしたことにより再ヒットしました。 |
|
The Spotnicks[ザ・スプートニクス] 1959年スウェーデンで結成されたバンド。 ベンチャーズ、シャドウズと並び「世界3大エレキ・バンド」の一つとして評価されています。 ロシア民謡やアメリカのカントリーミュージックなどをエレキ・インストゥルメンタル・アレンジした楽曲を演奏していました。 「スプートニク」とは旧ソ連が57年世界初の打ち上げに成功した人工衛星の名前。 そこから連想される様に彼らは宇宙服をイメージしたコスチュームを着て、リード・ギターであるポー・ウインバーグの自作のテープ・エコー・マシーンを使用し、澄み切った夜空と満天の星空を思わせる「宇宙サウンド」で世界中を魅了しました。 フランスのコンサート中には、自作の無線テープ・エコー・マシーンに飛ばしたギター・サウンドが警察の無線の回線と混同してしまい、パトカーからエレキ・サウンドが聴こえてきて、あとで大目玉を食らったというアクシデントもあったそうです。 |
|
1964年ニュー・リズムとして紹介され日本でも流行、65年の大エレキブームの下地を作りました。 64年日本のレコード会社で初めて本格的にサーフィン・ミュージックの名を付けたイベントをテイチクが開催。 赤坂プリンスホテルで中川三郎の振り付けで、新リズム「サーフィン・ダンス披露大会」を行いました。 その後、ビクターとユナイト映画の共催で「踊れサーフィン・コンテスト」が行われるなど、日本の若者達の間にサーフ・ミュージックは浸透していきました。 しかしこの頃日本で実際にサーフィンの遊びをしている人はほとんどおらず、道具もなかったそう。 日本でリリースされたサーフ・ミュージックのカバーの代表的なのものとしてザ・サーファリーズ「カレン」を甲山紀代が歌ったもの、ディック・デイルとデル・トーンズの「キング・オブ・サーフ・ギター」というインスト曲に歌詞をのせ尾藤イサオによりリリースされた「泣かせるあの娘」などがあります。 アメリカでのサーフ・ミュージックはインスト物のブームの後ボーカル入りのブームが来ましたが、日本では逆で、アメリカでヒットしたインスト物に日本語歌詞をつけたヴォーカル物のヒットがあってから、翌年65年のエレキ・インストの大ブームとなりました。 |
|
|
|
日本で初めてインストのサーフ・ミュージックのレコードが出たのは64年4月に発売された寺内タケシとブルージーンズの「これぞサーフィン」というアルバムです。 このレコードには「パイプライン」や「ワイプアウト」「ウォーク・ドント・ラン」など収録。 65年1月のベンチャーズ来日をキッカケに巻き起こったエレキ・ブームにより時代の流れに乗り寺内タケシとブルージーンズは日本のエレキ・インスト・バンドの頂点に立ちました。 彼らの実力は海外のインスト・バンド達が自分たちの実力を見せつけようと来日した際に「全くかなわない」と思わせる程圧倒的な演奏力だったそうです。 エレキの若大将としてお馴染み「加山雄三」と、若大将シリーズの映画プロデューサーである藤本真澄が「会社の人間で演奏できるやつを集めてバンドをやれ。映画でも使うぞ」と指示し、加山雄三がメンバーをかき集めて1962年結成したランチャーズ。 66年1月「加山雄三のすべて〈ランチャーズと共に〉」にもオリジナルのエレキ・インスト曲などを収録していました。 シングルカットされた「ブラック・サンド・ビーチ」や「ヴァイオレット・スカイ」などは名曲で和製サーフィン・インストの代表的ナンバーとなっています。 |
|
60年代前半のサーフ・ミュージックはどこか日本人にも馴染みやすいメロディーであったとともに、ロック色の強いサウンドであったために若者の間でも大ヒットしました。 この後、日本では大エレキ・ブームとなりGSバンドの登場へと時代は流れて行きます。 やっぱり夏と言えば海! この時期になるとテレビのBGMなどでもサーフ・ミュージックをよく耳にするようになります。 せっかくなので今年の夏は楽しくドキドキするようなサーフ・ミュージックを聴き、暑い夏をサーフィンするような楽しい気持ちで乗り切っていきたいなと思います。 |