こんにちは。ハイファイ堂レコード店の山本です。 9月に入り少しずつ秋の気配になってきたような気がします。秋の空気感を肌で感じられるようになると、良い季節になったなあとしみじみ思います。とはいえまだまだ残暑も続いているのでもう少しの辛抱かな思う次第です。 |
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さて、徐々に涼しくなっていく季節に個人的に聴きたくなる音楽はボサノヴァになります。ボサノヴァのサウンドの質感は秋の空気感と相性が良く聴こえてしまいます。 個人的な見解になってしまいますが、特にピッタリなのが、ナラ・レオンの「美しきボサノヴァのミューズ」というアルバムだと思います。 アルバムの原題は「10年後」という意味なんですが、これは何を表しているのか調べてみるとかなり興味深いことが解ったので今回はナラ・レオンとボサノヴァの関係について書いていこうと思います。 右の写真はナラ・レオンの「オピニオン」というアルバム。この際のインタビューがセンセーションを巻き起こします。そのエピソードは後ほど紹介したいと思います。 |
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ブラジル本国ではほんの数年しかもたなかった"ボサノヴァ・ムーヴメント"、その発端は、50年代後半頃のリオデジャネイロのアッパー・ミドル・クラスの若者達がアパートで繰り広げていた音楽集会がはじまりです。そのムーヴメントの中心にいたのがナラ・レオンでした。 ナラ・レオンのアパートの自室にはホベルト・メネスカルやジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンなど錚々たる面々が出入りし、音楽的交流を深めていく中で、ひとつの音楽スタイルとして形成されたものが"新しい潮流=Bossa Nova"と名付けられました。 下の向かって左側のジャケットはホベルト・メネスカルが1967年に発表したその名もズバリな「Bossa Nova」。 向かって右のジャケットは初めてレコードに録音されたボサノヴァ第1号楽曲「Chega de Saudade(想いあふれて)」が収録された、女性サンバ歌手エリゼッチ・カルドーゾのアルバム「コンサォン・ド・アモール・ヂマイス」。 |
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「愛と微笑みと花の時代」と呼ばれた当時のボサノヴァ・ムーヴメントを別の言い方で表現すると、欧州からの入植者の末裔にあたるブラジル社会の中流階級出身の若者達によるサロン文化という側面がありました。まさにその中心人物だったナラ・レオンはそのボサノヴァ・ムーヴメントの享楽的な雰囲気に次第に違和感を感じ始め、徐々にムーヴメントから距離をとるようになります。 そして1962年頃、"シネマ・ノーヴォ"と呼ばれる社会問題なども取り上げる先鋭的な映像作家達と交流をはじめ政治活動に傾倒していき、積極的にプロテスト・ソングを歌うようになります。 そしてクーデターによる軍事政権が樹立した(ボサノヴァ・ムーヴメントが衰退するきっかけになりました)1964年、ナラ・レオンはデビュー作「Nara」を発表します。 下の向かって左側のジャケットは記念すべきナラのデビュー作「Nara」。 向かって右はプロテスト歌手としての本領を存分に発揮した3rd「ナラが自由を歌う」。 |
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閑話休題、いまでは音楽ジャンルを指す固有名詞として認知されている「ボサノヴァ」とは結局何を意味していたのでしょうか?ざっくりいえばボサノヴァは「サンバの亜種」で当時は先に述べたように"新しい感性でサンバを演奏する若者達の総称"というニュアンスの流行語として広まっていたことが伺えます。 そのためか言葉にあやかろうとして音楽とは全く関係なく、色々なお店が「ボサノヴァ・セール」と銘打ってバーゲン施策を打ってでたり、とにかく何でも言葉の頭に"ボサノヴァ"を付けるという行為が流行したそうです。当時の狂騒の一端を伺うことのできるエピソードです。 さて、本題に戻りますがデビュー作以降、完全にボサノヴァと決別(どころか全否定)したナラは初めに挙げた「オピニオン」というアルバムをリリースした際のインタビューでボサノヴァについてこう語っています。 「ボサノヴァはもうたくさん、意味ないし、もうたくさん。マンションの音楽集会で、二、三のインテリのために歌うなんて、もううんざり」 「ボサノヴァが私の家で生まれたなんて大嘘。ボサノヴァなんて眠たくなるし興味が沸かないわ」 かつての自分すら否定するかのような発言は大センセーションを巻き起こし、かつての仲間達から批判されますが、ナラ・レオンは信念を曲げることなく、権力に抗う社会派歌手として活動を続けますが当時の軍事政権に睨まれる存在となり、1969年、身の安全を守るためフランス・パリへ亡命を余儀なくされます。 |
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その頃、自身の音楽活動に行き詰まりを感じていたナラにとって亡命先のパリの生活は思ったより快適だったようで、本人曰く"自分自身の波乱万丈な人生に疲れて"いたナラにとってパリでの穏やかな生活の日々は再び歌いたい気持ちを取り戻させたようです。 そういった経緯で1971年、自身と同じくパリへ亡命していたブラジル人女性ギタリスト、トゥッカと共にナラはアルバム制作に着手します。ナラ自身の企図したアルバムのコンセプトは意外なものでした、それはかつて自身が、決別し全否定までした「ボサノヴァ」を歌うというものでした。 パリでの生活が改めて自分のルーツと向き合う心の余裕を生んだのか、ナラ自身も非常にリラックスして楽しんで録音に臨めたと語るその内容は、アントニオ・カルロス・ジョビン作の楽曲を多く取り上げたコンセプト通りすべてボサノヴァ・スタンダード・ナンバーのみで構成された全24曲LP2枚組で完成しました。 |
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アルバムの原題である「Dez Anos Depois(10年後)」はナラ・レオンのそれまでのキャリアを示唆したものとなっています。 ボサノヴァ・ムーヴメントの中心にいた文字通りの"美しきボサノヴァのミューズ"であった彼女自ら否定し決別した音楽を10年を経て改めて異国の地で向き合った本作は、思慮深く空を見上げるナラが写されたジャケットと内ジャケット写真の雨に煙るノートルダム寺院の雰囲気も相まってか望郷の寂寥に満ちた作品と思われがちですが、実際は望郷の念はあってもポジティブな雰囲気に包まれた慎ましく味わい深いアルバムとして世に出ることとなりました。 そういった経緯で生まれたアルバムなので日本盤タイトルである「美しきボサノヴァのミューズ」は半分は真実だけどもう半分は真実を捉え切ってないように感じるので非常にもどかしい気分になります。 そんな感じで、アルバムが生まれた背景を知った上で改めて聴き直すと以前とは違う趣を感じることができるかと思います。 是非、秋の夜長に本作をじっくりと聴きながら過ごすのはいかがでしょうか。 ちなみにナラは1973年にブラジルへ帰国の途につくのですが、その後の動向に興味がある方は、今回メルマガを書くにあたって参考にしたナラ・レオンの評伝本の日本語訳版『ナラ・レオン:美しきボサノヴァのミューズの真実』(セルジオ・カブラル(著)/スペースシャワーネットワーク/2009)という本があるので、ご一読をお勧めします。 それでは今回のメルマガはこれにて終了とさせていただきます。最後までお読み頂きありがとうございました。 |