この所の京都は、夏を思わせる暑い日もあるのですが、紫陽花はやっと蕾みが膨らみ始めたばかり、京都店の夏服のポロシャツはピンク色に決まった様です。京都商品部の朴 高史です。 日々、様々なスピーカーのメンテナンスをおこなってる中、やはり最も数が多いのがJBL製のスピーカー。 と言う事で今回はJBLのお話。 |
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創業者のジェームス・バロー・ランシングは、1902年1月14日、イリノイ州で生まれたイタリア系アメリカ人、炭坑技師のマーティ二家の9番目の子として誕生。(14人兄弟だったそうです。) オーディオに関係するキャリアは、1924年(22才)、ユタ州ソルトレークシティでのラジオ放送局の技師と成った事に始まります。 (当時のラジオ局の音には大変不満持っていた様です。) アメリカでのラジオの商用放送が開始されたのが1920年、 「放送局」が公認されたのは1921年12月1日です。 |
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1927年、ソルトレークシティで知り合ったケン・デッカー氏とともに、初めての会社「ランシング・マニュファクチャリング社」をロサンゼルスで興します。 最初はラジオセット用スピーカーを主に製作していた様です。後にビル・マーティン、ジョージ・マーティンの弟二人も会社に加わってます。(イタリア系っぽいです。) この頃、名前をジェームス・マーティンからジェームス・バロー・ランシングに改名した様です。 1920年代のアメリカは未曾有の好景気を享受し、人々は、ラジオや車、エレクトロニクスも急激に発展と共に、モノが反乱し、消費に明け暮れた「狂躁の20年代」・ジャズエイジとも言われた時代です。 イタリア移民にとっては、アメリカ移民政策による、旧移民と差別や、イタリアマフィアの台頭などもあり、ビジネス的リスクを考えての改名かと思われます。(推察です。) |
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最初の転換期が、1934年のMGMシャラープロジェクトでのユニット開発及び、製造販売。このシャラーンホーンシステムは、1936年に映画芸術科学アカデミー賞を受賞しております。 このときに作られたスピーカーユニットが、15インチウーファー「Lansng 15XS」(フィールドコイル型)とコンプレッションドライバー「Lansing 284」(フィールドコイル型)です。 翌年の1937年には、小型モニターシステム「Iconic」が作られ、シャラーンホーンシステムと共に販売されてます。 ハリウッド黄金期とも呼ばれるこの時代、「風と共に去りぬ」や「市民ケーン」、「キングコング」そしてMGMミュージカルなど、映画が娯楽の中心の時代でした。 |
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業績は認められてた様ですが、会社運営はあまり良くは無かった中、1939年12月10日、最高財務責任者のケン・デッカー氏が、飛行機事故で亡くなり、1941年には、会社を閉めざるを得ない状況に成ってしまいます。 1941年12月-1943年9月、第二次世界大戦の米伊戦争。日本がアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は日本に宣戦布告した結果、イタリアはアメリカに宣戦布告、 アメリカ議会もイタリアに宣戦布告し、アメリカ軍は第二次世界大戦のヨーロッパ戦線に参戦した。 1943年9月、イタリアは国民がファシスト等政権を打倒して臨時政府を樹立して連合国に降伏し、イタリアとアメリカ、イギリス、フランス、ユーゴスラビア、その他の連合国との戦争が終了した。 イタリア北部はドイツ軍とドイツ軍が支援するファシスト党の支配下にあり、イタリアは連合国に参加してドイツに宣戦布告した。(ウィキペディア) |
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1941年、「ランシング・マニュファクチャリング社」は、ウエスタンエレクトリック社のシアター音響サービスを行っていたアルテック・サーヴィス社に5万ドルで買い取られ、「アルテック・ランシング社」が発足します。 ジム・ランシングは、5年間の契約で、製造担当副社長の役職を与えられます。 1943年から、ジョン・ヒリアードと共に、シアターシステムの開発を進めています。1944年に完成したのがA4システムです |
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注目されるの点が、ジョン・ヒリアードの提案に依る永久磁石(アルニコVマグネット)がスピーカーユニットに使用された事です。 同年、フィールドコイル型の同軸2ウェイユニットの601デュプレックスの磁気回路をアルニコVマグネットに変更された604デュプレックスが開発されます。 612型エンクロージャー(Iconicシステムの低域用)に収められた小型モニターシステムは後にスタジオモニターの定番として広く使わることになります。 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が1945年5月8日に終わった時、ソビエト連邦と西側諸国(アメリカ、イギリス、フランス)の軍隊はドイツの中心を通る前線に位置していた。 この前線について多少の調整が行われたものの、それがそのまま冷戦時の鉄のカーテンになった。ポツダム会談で合意されたように、オーデル・ナイセ線の東に住むドイツ国民は強制移住された。 後に分かったところでは、ヤルタ会談で両陣営がドイツに留まり、どちらも他方を追い出すために軍事力を行使しないという合意に達していた。 この暗黙の合意はアジアにも適用され、日本のアメリカ軍による占領と朝鮮の分割になった。(ウィキペディア) |
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1946年10月1日、5年の契約期間が過ぎて、ジム・ランシングは「アルテック・ランシング社」を去り、カリフォルニア州サンマルコスに所有する農園内に、「ランシング・サウンド社」と言う小さな会社を作ります。 社名は、すぐに「アルテック・ランシング社」からの苦言により、「ジェームス・B・ランシング社」と変更になります。この小さな会社が「JBL社」の始まりです。 最初の製品が15インチフルレンジユニットのD101。センターのキャップがアルミ製になってます。アルテック515が元になっている様ですが、作られたのは初年度だけだった様です。 翌年に掛けて、開発が進められたのが、D130。今も、他に類を見ない高能率15インチフルレンジユニット。「Iconic」、604デュプレックスに続く様々な場面で使える小型モニターシステムを想定したユニットかと私は思うのですが、、、 1950年代のアメリカは、戦勝国ムードに溢れていました。それまで抑え付けられていたものが一気に解き放たれたかのように、様々なものが花開いていったのがゴールデンエイジと呼ばれるフィフティーズです。 人々は生活や心が豊かになり、アメリカは実用や機能だけを求めていた時代から抜け出て、デザインやアート性といったプラスアルファの部分にも目を向けられるようになったのです。 |
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1949年9月29日、経営状況の悪化を苦にしてか、ジム・ランシングは、サンマルコスの農園内で自ら命を絶ちます。しかし、JBL社の歴史は始まったばかりです。 経営は当時の副社長のビル・トーマスが引き継ぎます。 ビル・トーマス社長就任後の数年は、財務状況の改善の為か、特に新しい製品が無いように思われます。(1952年のC34と175DHLくらいか) 実は、1953年、ウエストレックス社とアンペックス社の2社からシアター用のシステムの依頼があり、そちらに注力してた様です。 ウエスタンエレクトリックの輸出業務部であるウエストレックス社との打ち合わせで、ウエスタンエレクトリック製のコンプレッションドライバー594AのアルニコV化の依頼を受け作られたのが375(T530A)ドライバーでした。 低域用ユニットは130型のフレームを使い、コーンの強度を強くした150-4(T510A)が作られ、T530A用の大型ホーン T550A、T551A、なども用意されてた様です。 アンペックス社用には小型シアターシステム用としてC55エンクロージャーが作られました。 こちらの二つのプロジェクトには、バート・ローカンシーが深く関わっていた様です。 |
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これらのプロジェクトは、アルテック社の存在が大きかった為か、あまり長くは続かなかったようで、1955年からは、本格的にコンシューマー向けの商品の開発に進むのですが、 このシアター用に開発されたユニットやホーンが、改良され、ハーツフィールドやパラゴンへと繋がってゆくのでした。 |
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現在京都店には、メンテナンスが施されたJBL製スピーカーを多数用意しまして、ご来店をお待ちしてます。 では、失礼します。 |