ようやく暖かさが戻り 春らしい薄着が心地よく思える季節になって来ました。 気が付けばゴールデンウィークももう目前です。 皆様、いかがお過ごしでしょうか。 4月第四週目のメルマガ、日本橋店からは渡辺が担当いたします。 独り善がりの駄文に暫しのお付き合いを・・・ |
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“R.I.P.山崎眞行” 例年に無い記録的なスピードで北上した今年の桜前線。 大阪を飛び越して咲き乱れた原宿の桜に紛れ、 ひっそりと山崎眞行氏が逝去された。 享年67歳。 フィフティーズムーブメントの立役者であり原宿ストリートカルチャーの開祖、 そしてビビアンの永遠の恋人。 手掛けたお店は 怪人二十面相、キングコング、シンガポールナイト、クリームソーダ、 ガレッヂパラダイス東京、ピンクドラゴン etc. 自分の理想はすべて「お店」という表現方法で叶えられるとして、 前例のない エポックメイキングな店舗を次々とスクラップ&ビルドしてきた。 山崎眞行氏がどんな人物か説明しようと思うとこんな感じになるのか。 |
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“原宿ゴールドラッシュ” 1977年にやってきた時代の大波、原宿ロックンロールムーブメント。 その予兆は数年前からあった。 キャロルやクールスetc・・ 50〜60年代をイメエジしたロックンロールバンドの台頭。 76年には歌謡曲サイドからあおい輝彦の「あなただけを」がビッグヒット。 この「あなただけを」という曲、 ミドルテンポでメローなリゾート感溢れるツイストナンバーで、 甘く切ないなかなかの名曲だ。 これこそが山崎眞行氏が手掛けた数々の「店」の世界観そのものだった。 この「あなだけを」という楽曲、 作詞を担当したGAROの大野真澄氏は 70年代初めから山崎眞行氏の「シンガポール」に出入りしていた人物だ。 原宿の隅っこで起き、 これからやって来るであろう時代の大波の予兆を巧みにすくい取り、 世に問うたと考えるのはあながち間違いではないだろう。 粗野でシンプルなロックンロールを信条としたCAROLのロックンロールとは少し違った 甘くPOPなティーンネイジドリームやアメリカンゴールデンドリームを標榜する 山崎眞行氏の描くフィフティーズムーブメントの大波。 それは原宿の洋服と雑貨を扱う店「クリームソーダ」から始まった。 黒い革ジャンから 鮮やかな色目のボーリングシャツやアニマルプリントのイタリアンカラーのシャツへ。 スエた匂いのするヤナギヤポメードで固めたリーゼントヘアは ペパーミントやココナッツの香りのするグリースに変わり リーゼントの造形も複雑な流線型をした巻貝のようなフォルムに変化した。 ブルージーンと皮ジャンパーという 福生、横田、横須賀、佐世保等の進駐軍経由の やさぐれたカジュアルスタイルに取って代わり、 もっと大胆に、そして洗練されたものに代わっていった。 衣食住から音楽に至るすべてを 山崎眞行氏のフィルターを通して「クリームソーダ」で提示した見せた。 「あなただけを」で再びのスターダムの座を手に入れつつあったあおい輝彦は 連日のテレビ出演の際に 原宿ホコ天で踊っている「クリームソーダ」の洋服で着飾った若者達を登場させた。 あおい輝彦がその甘い声で歌い出すと 思い思いのフィフティーズルックのリーゼントやポニーテールの若者が ツイストやジルバを踊った。 その頃、ジルバを踊ろうジャック&ベティのキャッチコピーで SONYのラジカセ「ジルバップ」が登場した。 プレイボーイ、ポパイ、ゴローなどの雑誌が こぞって「クリームソーダ」を中心に渦巻くムーブメントを紹介し始めた。 原宿で起きているシーンを雑誌やテレビを見て指をくわえるしかなかった大阪でも ナビオ前歩行者天国でストリートダンスが始まり デカいラジカセを持ち出して屋外でツイストを踊るという行為が全国に飛び火した。 1977年に沸点に達したこのフィフティーズムーブメントは その後も衰える事なくまだまだ続いた。 |
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上:70年代末、雑誌POPEYEに掲載されたクリームソーダ記事 今と違いなにより雑誌がパワーを持っていた |
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上:「MID-CENTURY MODERN」という洋書で紹介された山崎氏の部屋 |
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“粉紅之龍” そして「ピンクドラゴン」が出来た。 自分の理想はすべて「お店」という表現方法で叶えられるとして、 前例のないエポックメイキングな店舗を次々とスクラップ&ビルドしてきた山崎眞行氏。 その集大成とも言えるビルが「ピンクドラゴン」。 イメージはマイアミやキューバ、或いはシンガポール当たりにありそうな アールデコ様式の建物。 いわゆるトロピカルデコと言うスタイルだ。 屋上にはプール、地下にロカビリーバンドが演奏出来るスタジオのある店舗。 見事なアールデコ様式の家具で揃えたカフェもあり 最上階は山崎眞行氏の住居となっている。 洋服だけではなく見たこともないアールデコの家具も売られていて、 ピンクドラゴンは不良高校生から業界人まで ありとあらゆる人種のお客が押し寄せた。 ミッドセンチュリーなインテリア好きのバイブルと言える cara greenbergの著作「MID-CENTURY MODERN」という洋書の最後の章には ピンクドラゴンの山崎眞行氏の部屋が紹介されている。 1977年、原宿からはフィフティーズの波が、 キングスロードからはロンドンパンクの波が起きた。 結局のところそのふたつのムーブメントは根っこで繋がっていた。 ロンドンパンクの仕掛け人である マルコムマクラーレンとヴィヴィアンウエストウッドは 山崎眞行氏と旧知の仲で、 当時英国病とも言われた慢性的不況を時代背景に 若者に「NO FUTURE」と叫ばせたのであり、 逆に高度経済成長の続く日本では 50年代のゴールデンドリームを提示して見せた。 それでも山崎眞行氏が原宿クリームソーダに掲げたドクロ旗には 「Too Fast To Live Too Young To Die」と記されている。 この文章については色々な解釈が出来るようだが 実はヴィヴィアンウエストウッドが 当時やっていたパンクファッションのブティックの名前だ。 そこに並ぶ服はレザーボンテージと並び ズートスーツや ビリビリに切り裂かれたボーリングシャツや穴だらけのモヘアセーターなどの フィフティーズスタイルのリメイクだった。 クリームソーダの洋服はそれを切り裂かずに 蛍光色に色を変え生地や縫製のクオリティを落として ことさら安っぽくリメイクした。 糸から作り上げたまったくのオリジナル生地を起こして使うという 贅沢なモノ作りを行うにも関わらず それでもあえて安っぽくすることで出てくるニュアンスを選んでいる。 パンクロックの稚拙な演奏とラフでチープな録音をそのまま服飾に当てはめた。 今なら時代考証はもちろんのこと クオリティも素晴らしいリアルなフィフティーズファッションは いくらでも手に入る。 山崎眞行氏の凄いところはそこでは無くて あくまで山崎フィルターを通した 架空のフィフティーズスタイルを作り上げたことだと思う。 「ハートはテディ」という山崎眞行氏の著書の中に 50年代は過ぎ去った過去でなくこれからやってくる未来だとも述べられている。 1977年の夏、 フィフティーズとパンクスはせめぎ合い共振しながら日本中を振るい動かした。 そして、 そこを発火点にして形を変えながら様々なストリートカルチャーが生まれていった。 |
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上:クリームソーダに掲げられたスカル&クロスボーン旗と Too Fast To Live Too Young To Dieを クリームソーダファンは「やるだけやってしまえ」と読むのです |
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“Too Fast To Live Too Young To Die” 例年に無い記録的なスピードで北上した今年の桜前線。 大阪を飛び越して咲き乱れた原宿の桜に紛れ、 ひっそりと山崎眞行氏が逝去された。 享年67歳。 フィフティーズムーブメントの立役者であり原宿ストリートカルチャーの開祖、 そしてビビアンの永遠の恋人。 手掛けたお店は 怪人二十面相、キングコング、シンガポールナイト、クリームソーダ、 ガレッヂパラダイス東京、ピンクドラゴン etc. 3月30日に身内だけで告別式を行った以外 クリームソーダサイドは山崎眞行氏の逝去について一切口を閉ざしている。 マスコミ関係の取材や問合せも全て断っているとのこと。 ショップのブログにもそのことは何も書かれていない。 何事もなかったかのように安っぽく作られたTシャツやボーリングシャツを いつも通り売っている。 今後のクリームソーダ/ピンクドラゴンがどうなって行くのかは知る由もないが、 このことはいかにもクリームソーダ的で山崎眞行氏らしいと思う。 恐々 日本橋店 渡辺正 |