こんにちは。レコード店の松田です。 もう5月も終わり、暑い日が増えて来ました。 こうなるとやっぱり「待ち遠しいのは 夏休み♪」ですね! ということで今回はオールディーズのド定番ナンバー「VACATION」でお馴染みの歌手、コニー・フランシスについてご紹介したいと思います。 |
|
Connie Francis [コニー・フランシス] 本名:Concetta rosa maria franconero (コンチェッタ・ローサ・マリア=フランコネロ) 1938年12月2日生まれ、アメリカ出身のイタリア系の歌手・女優。 1960年代のアメリカン・ポップス黄金時代に多くのヒット曲を出しました。 その人気はアメリカだけにとどまらず、コニー・フランシス本人による歌唱で13カ国の言語でレコードが発売されたり、63年にはクイーン・エリザベス2世の要請でイギリスへ赴き、女王の前でその美声を披露したりなど全世界から愛される歌手となりました。 |
|
コニー・フランシスが初めて音楽に触れたのは3才の頃、父からプレゼントされたアコーディオンでした。 熱心な父の教育もあり、そのアコーディオンの腕前を武器に小さい頃から様々なショーやテレビ番組などに出演。 11才の頃に出演したテレビ番組「The star time kids」がキッカケで番組のプロデューサーであったジョージ・シェックの目に止まり、彼がコニー・フランシスのマネージャーとなりアコーディオン奏者兼歌手であったコニー・フランシスを専業の歌手にしました。 この頃までは本名で活動していましたが、誰にでも発音しやすい名前である芸名、コニー・フランシスに改名し本格的な歌手活動を開始。番組にレギュラー出演し歌手として経験を積みました。 |
|
その後、売り込みを図るべく、マネージャーのジョージ・シェックは多くのレコード会社をまわりますが、メジャーなレコード会社にはことごとく断られてしまいます。 唯一MGMレコードの目にとまり1955年、コニー・フランシス17才の年に「Freddy」という曲でようやくレコードデビューします。 しかし理由は、MGMの社長の息子が「Freddy」という名前であり、たまたまコニー・フランシスのデモテープに入っていた息子の名前である「Freddy」という曲を誕生日プレゼントとして息子に送ろうと思ったからでした。 ようやくレコードデビューしたコニーフランシス、彼女は当時ニューヨークの大学で心理学を学ぶ大学生でしたが自分の歌の才能に賭けて、大学を中退。 しかし残念なことにデビューからの数年間全くヒット作に恵まれませんでした。 その間、ショーなどに出演する傍らチャックベリー出演のロックンロール映画「Rock, Rock, Rock」や、カール・パーキンス、ファッツ・ドミノ出演の「ジャンボリー」の歌唱シーンの吹き替えの仕事などをしていたそうです。 |
|
58年2月コニー・フランシス初のヒット曲となる「Who's sorry now?」発売。 アメリカの人気音楽番組で紹介され、大ヒット。 自身初のミリオンセラーとなりました。 原曲は1923年の古いポピュラーソングで、父の提案で録音した曲。 ここまでなかなかヒット作が出ず苦しんでいたコニー・フランシスは「この曲がヒットしなければ歌手を辞めよう」と決心し、最後の1枚のつもりで出したレコードでした。 この曲がなければアメリカン・ポップスの女王としての華やかな活動もなかったとも言える、コニー・フランシスにとって大きな転機となった曲でした。 |
|
|
|
|
|
1962年7月発売の「VACATION」はいまやオールディーズのド定番ナンバーとなり、50年以上たった今でも、どの世代でも知っているような曲となりました。 元気で明るくパンチのある歌声、歯切れのいいウキウキするようなリズムと、漣健児により訳詞された独特の楽しい歌詞は日本でもヒット。 同年、弘田三枝子、青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子、安村昌子による競作でカバーされ、弘田三枝子盤が20万枚、青山ミチ盤が3万枚のヒットとなりました。 日本でも大人気となったコニー・フランシス自身による日本語バージョンも発売されました。 |
|
中尾ミエのカバーで100万枚を越える大ヒットとなったコニー・フランシスお馴染みの「可愛いベイビー」ですが、この曲は実は日本独自のヒット曲なのです。 アメリカではアルバムに収録されたのみでシングルカットはされず、アメリカでのこの曲の知名度は日本ほどありませんでした。 しかし日本で大ウケしたこの曲は62年中尾ミエ、沢リリ子、森山加代子など多くの歌手にカバーされました。 日本以外でもヒットしたこの曲はスペイン語、スウェーデン語、台湾語、中国語でセルフカバーされ発売されました。 このように日本独自のヒット曲が多いコニー・フランシス。 日本では彼女の代表作とも言えるような「夢のデイト」や「ロリポップ・リップス」「大人になりたい」なんかも日本独自のヒット曲です。 |
|
1961年、コニー・フランシス主演の映画「ボーイ・ハント」公開。 映画主題歌になったこの曲は、ニール・セダカ&ハワード・グリーンフィールドによるヒット作です。 最初、脚本家は主題歌を別のソングライターに委託しようとしていたのですが、コニー・フランシスが「この映画にピッタリの主題歌で、しかもヒット曲を書けるのはこのコンビしかいない」と自身の映画降板もチラつかせゴリ押しし、このコンビが主題歌を作ることになったそう。 コニー・フランシスお得意の「泣き節」と称される涙をこらえて訴えるかのような独特の歌い方はこの曲の中でも存分に発揮されています。 またコニー・フランシスのヒット作「間抜けなキューピッド」もこのコンビによる作品で、ニール・セダカはこの曲がヒットしたことで注目を浴びるようになりました。 |
|
|
|
|
|
ポップス、ロックンロール歌手として大スターとなったコニー・フランシス。 日本でも発売されたレコードはシングルのみでも50枚以上になりました。 コニー・フランシスは得意のポップス、ロックンロール以外にも多くのジャンルの音楽に挑戦しており、ラテンやシャンソン、ジャズ、民謡、カンツォーネやハワイアンなど多くのレコードを発売しました。 彼女の何でも幅広く歌いこなす実力と、世界中から愛されていたことがとてもよく分かります。 |
|
60年代末以降は音楽シーンも変わって行きコニー・フランシスはヒットチャートから姿を消してしまいます。 その後も音楽活動を続けていましたが74年宿泊したホテルで事件に巻き込まれ躁鬱病になってしまい入退院を繰り返すようになります。 何度か復帰を試みましたが上手くいきませんでした。 そこに追い打ちを掛ける様に弟が殺害される事件、彼女自身も4度の結婚・離婚を繰り返すなど波瀾万丈な人生を送ります。 しかしやはり音楽への愛は捨てきれず81年11月、約7年ぶりにステージに復帰します。 そこからヒットシーンへ躍り出ることはありませんでしたが、未だに活動を休止することはなくアルバムの製作や、頻繁ではありませんがショーへの出演を行っています。 |
|
波瀾万丈な人生を送り、現在の活動は派手なものではないですが、60年代を代表するポップスの女王といえばコニー・フランシスで間違いないと言い切れるほど多くのヒット曲を世に送りました。 そしてその曲は未だに色褪せること無く様々なアーティストにカバーされたり、テレビで使われたりしており当時を知らない若い世代の人でも知っているようなナンバーばかりです。 コニー・フランシスの名曲の数々はいつの時代でも、どこの国の人でも、誰が聴いてもで楽しめる作品ばかりです。 是非一度、彼女の魅力たっぷりな素敵な作品を聴いて楽しんで頂けたらいいなと思います。 |