五月の京都は、鴨川の納涼床も始まり、街の其処此処に咲くツツジも綺麗です。 京都商品部の朴 高史です。 私の最近の朝の習慣と成ってますのが、NHK朝の連続テレビ小説を見る事です。 「あまちゃん」(それも最後半から)にハマり、習慣化してしまいました。 「ごちそうさん」が終わり、現在、「花子とアン」が放映されてます。 (次回作は、ニッカウヰスキーの創業者の英国人の妻 竹鶴 リタさんが主人公のお話「ハッサン」とアナウンスされてます。おもしろそうです。) 東京NHKと大阪NHKが半年ずつ交代で製作されてるようで、今回の「花子とアン」は東京製作です。 時代の変化や、環境の変化に翻弄されつつ成長するヒロインの姿を、半年間(一回が15分)にわたり丁寧に描かれたよくできたドラマです。 今回のお話は、そんなヒロインには成れなかった女性達のお話です。 |
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先ずはこちら。 Linda Perhacs リンダ・パーハクス カリフォルニア州ロス・アンジェルス近郊のサン・フェルナンド・バレー出身 今回のお話のきっかけと成りましたのが、 「伝説的女性ヒッピー・シンガー・ソングライターLINDA PERHACS、44年ぶりとなるまさかの2014年新作」とあった、 アルバム『The Soul of All Natural Things』の宣伝文句でした。 44年ぶりのセカンドアルバムには、あまり興味が無く、 アシッドフォークの金字塔とか言われているファーストアルバムの『Parallelograms』パラレログラムス(平行四辺形と言う意味です)が気になりました。 |
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『Parallelograms』パラレログラムス Linda Perhacs リンダ・パーハクス 1970 一時期は、ハワイのシンガーソングライターに依るサイケとハワイアンの融合した音楽とも評され、 アルバム発表後は消息不明で、謎のミュージシャンのカルト中のカルトなアルバムとも言われてた様ですが、 2003年のCD化のときに発見され、謎が明かされます。 彼女はロサンゼルス近郊のサン・フェルナンド・バレー出身の歯科衛生士(現在もロス在住)で、 患者として知り合った作曲家のレナード・ローゼンマンLeonard Rosenman(エデンの東や理由なき反抗の映画音楽の作曲で有名、テレビのミステリーゾーンやヒッチコックアワーの音楽もこの人です。)と意気投合したのか、 ローゼンマン氏のプロデュースにより製作されたアルバムが、こちらの様です。 版権がハワイの音楽出版社にあったことから、ハワイアンミュージシャンだと思われていたとのこと。 当時流行のシンガーソングライター風のアコースティック中心の音楽ですが、 ヴォーカルの多重録音や、タブラやシタールの音も聞こえ、アシッドな雰囲気です。 時折、前衛音楽の様な展開が入るのは、ローゼンマン氏の真骨頂かと思われます。 発売時は、無名のシンガーに依る、マイナーレーベルからの発売でしたので、 (プロデュースやスタッフは一流ですが)あまり売れず、自身もプロミュージシャンに成る気もなかった様で、 幻のアルバムと成りました。 |
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次はこちら。 KAREN DALTON カレン・ダルトン 1937年7月19日生まれ。オクラホマ州の出身(生誕地はテキサス州との説もある)、ネイティヴ・アメリカンの血を引く。 1950年代の半ばにニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで活動を始めていた。 |
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『It's So Hard To Tell Who's Going To Love you The Best』 KAREN DALTON カレン・ダルトン 1969 グリニッジ・ヴィレッジのビリー・ホリディ”と賞される素晴らしい歌声の持ち主、 フレッド・ニールやボブ・ディラン、などのフォーク・ムーヴメントの中心人物にも注目されてました。 12弦ギターと5弦バンジョーを手にフォーク・ブルースを歌うカレン・ダルトン。 同じく12弦ギターの名手であったフレッド・ニールの力添えにより、 1969年にニック・ヴェネット(フレッド・ニールを担当したキャピタル・レコードのプロデューサー)のプロデュースで出されたファースト・アルバムがこちら。 フレッド・ニールやティム・ハーディンの楽曲やトラッド・ナンバーが収録された 興味深いアルバムでしたが、カバー曲ばかりで、当時の風潮とは合わず、あまり売れなかった様です。 |
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「In My Own Time」KAREN DALTON カレン・ダルトン 1971 1971年にベアズヴィルスタジオ等でレコーディングされたセカンドアルバム。 ディランやアル・クーパーとの活動でも知られるベーシストのハーヴェイ・ブルックスがプロデュースとベースを務め、 再結成後のザ・バンドにも参加したリチャード・ベルと、ジョン・サイモンがピアノで、エイモス・ギャレットがギターで参加してます。 パーシー・スレッジで有名なWhen A Man Loves A Womanや、ザ・バンドのIn A Station、 ディノ・ヴァレンテのSomeThing on Your Mindからトラディショナルまで、バリエーションに富んだ選曲です。 |
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この2ndアルバム「In My Own Time」のリリース後に忽然とシーンから消えてしまいます。 実は3rdアルバムの製作にも取り掛かっていたようですが、その矢先に失踪、そして二度とシーンに戻ってくることはありませんでした。 原因は重度のアルコールやドラッグの中毒だったそうですが、おそらく急激な状況の変化に耐え切れずドロップアウトしてしまった様です。 80年後半にはホームレスのような生活を送り、アルコール中毒とドラッグ漬けになってニューヨークで死去したと伝えられたのは、1993年のことでした。 |
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つづいてはこちら。 Margo Guryan マーゴ・ガーヤン 1937年9月30日、米国ニューヨーク生まれ。 女性ピアニスト、シンガー・ソングライター 両親ともにピアニストの家庭に生まれ、幼少期からクラッシックピアノを学び、 大学時代には、ジャズに傾倒しLenox School Of Jazzのサマースクールでは、 ビル・エバンスに師事、同級生には、オーネット・コールマンも居たそうです。 この頃、ジャズミュージシャンのボブ·ブルックマイヤーとの結婚も経験しますが、ほどなく離婚された様です。 |
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「Take a Picture」 Margo Guryan マーゴ・ガーヤン 1968 この頃、ジャズをこよなく愛していた彼女に、友人のピアニストのDave Frishbergが聴かせたのが ビーチ・ボーイズのアルバム「ペット・サウンズ」。 収録曲の「God Only Knows」がたいそう気に入った様で、 自身でレコードを買い、100万回聴き、ポピュラーミュージックに開眼、 「Think Of Rain」と言う曲を書き上げます。 コロンビアレコードに自身のヴォーカルでのデモテープを持っていきレコーディングされる事と成ります。 自身で歌う事を希望してた様ですが、ディレクターに否定され、 1967年ジャッキー・デシャノンとクローディーヌ・ロジェにより発表されました。 ソングライターとして、いくつかの仕事をこなした頃に持ち上がった企画がこのアルバムで、 当初は、他のヴォーカリストを使う予定でしたがスケジュールが合わず、 止む無く彼女自身がヴォーカルに加工をする条件で引き受けたとの事です。 ソフトサイケの名盤と評されるアルバム、全曲が自身の作詞、作曲よる作品です。 サイケデリックロックなイントロで始まる一曲目の「Sunday Morning」 正にソフトロックな二曲目の「Sun」へと続きます。 自身のヴォーカルによる「Think Of Rain」や、前衛的な長いイントロで始まる「Love」など聞き所です。 批評家の評価は上々で有ったものの、売り上げはいまいちで、 プロダクションからのライブツアーを断ったため、プロモーションは打ち切られます。 その後は、プロデュース業等の裏方での活動は有りましたが、 再婚後は、子供のピアノ教師をしながらロスで暮らしている様です。 |
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最後がこちら。 Judee Sill ジュディ・シル 1944年10月7日 カリフォルニア州ロスアンジェルスに生まれ。 シンガー・ソングライター 父母が経営するバーで、ピアノに幼き頃から親しみ、ウクレレやギターの演奏を覚えて作曲を始めるようになる。 父が亡くなり、母は再婚するが、その養父が極度のアルコール中毒で、虐待をうけるようになる。ジュディは反抗的な態度を取るようになり、 10代で家出、犯罪とドラッグに手を染めて行き、恋人とガスリン・スタンドを襲い、投獄される。 そこで、教会音楽と出会い、バッハの音楽に惹かれていく。 その後、ソング・ライティング・コンテストで優勝し、音楽の才能を開花させて行き、地元のバーで歌い始めるが、またもドラッグの地獄へ、 ジャンキーとなりクスリを買うために身を売ったり、不渡りの手形詐欺に手を染める。 再び逮捕されたジュディはやっと中毒症状から脱し、宗教にますます惹かれるようになる。 音楽活動を再開したジュディは”Lady-O”という曲を書き上げ、タートルズに取り上げられる。この頃、グラハム・ナッシュと出会い、 クロスビー&ナッシュのツアーで前座をつとめるまでになる。 デビッド・ゲフィンが立ち上げた、アサイラム・レコード第一号のミュージシャンとしてデビューする。 |
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「Judee Sill」 Judee Sill ジュディ・シル 1971 アコースティック楽器が基調となるフォーク、カントリーサウンドに、オーケストラが重なり、ヴォーカルも多重録音され、オルガンが入るホーリーなムード漂う音楽です。 批評家には高く評価されたのですが、一般的な セールスには結びつかなかった様です。 |
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「Heart Food」 Judee Sill ジュディ・シル 1973 一年以上の歳月を掛けレコーディングされたセカンド。ファーストアルバムをより深化させたサウンドです。バックコーラスとオルガンが入り、よりゴスペル的な雰囲気が出てます。 |
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あるインタビューで、アサイラム・レコード代表のデビッド・ゲフィンがゲイである事を言ってしまい、 ゲフィンの怒りを買いプロモーションが打ち切られてしまいます。 結局、ファーストアルバム以上に売れなかった様です。 彼女は自費でサード・アルバムを制作に取掛かるが、アサイラムとの契約は切られ、結局、この作品はお蔵入りとなる。 (2005年8曲の音源をジム・オルークのミックスでCD化されました。) さらに、ジュディは交通事故に遭い、脊椎を損傷、手術をうけるも、後々まで痛みに苦しむことになり、その痛みを和らげる為に、 再びドラッグに手を出し、その後5年近く彼女は行方不明。 1979年ドラッグの過剰摂取により他界してしまいます。 |
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1970年前後のアメリカは、ベトナム戦争の長期化、ウォール街の暴落や、ウーマンリブ運動や学生運動の擡頭と混乱の最中で、 音楽業界も巨大化へと進む中、ミュージシャンとしての成功からはこぼれ落ちてしまった彼女達ですが、 その人生はテレビのドラマ以上にドラマチックだったりします。 4人の女性のこれらのアルバムは、入手困難なため幻のアルバム(幻系)とも呼ばれ、 高価な価格で取引されたりしておりましたが、(オリジナルLPは今も高価です。) やはり良い物はいずれ評価される様で、デヴェンドラ・バンハート、ジム・オルークやベック、コーネリアスなど ミュージシャンからのリスペクトが有ったり、数年前からブームの名盤発掘企画などで、ほとんどが、CDで手に入るようになりました。 今では、youtubeや、iTunesでも簡単に聴けるのですが、やはりいい音楽に出会うといい音で聴きたいのが心情です。 70年頃のアメリカンミュージックには、やはり当時のアメリカのスピーカーで聴くのが気分も盛り上がります。JBLなら、申し分なしです。 |
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