今年の夏は、湿気に悩まされました。(ラッカー塗装時には、湿気が大敵で、)京都商品部 朴 高史です。 このメルマガが配信される頃には終わってしまってるのですが、 大丸京都店で開催されてました「ヴィンテージサウンドフェスタ&アナログレコードコンサート」に、裏方である私が引っ張り出されてしまい、先日、アナログレコードコンサートを行ってきました。 私的には、考え抜いた選曲だと思うのですが、説明などが不慣れなもので、うまく伝わってたのか不安です。 と言う事で今回は、今回の私のアナログレコードコンサートの補足及び反省です。 まずは一日目。 |
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テーマが「70’ウエストコーストサウンド 〜SSWからWOODSTOCK(洋楽)」。 |
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1970年頃のアメリカの西海岸から出現しはじめたシンガーソングライター(SSW)とはどういう事だったのかと言うのが主旨です。 選曲内容がこちら、 1.James Taylor Fire And Rain Sweet Baby James 1970 「Sweet Baby James」は、ジェームス・テイラーが1970年に発表したセカンド・アルバムで、シングルカットされたのが「Fire And Rain」で、全米3位となりました。。(wikipedia)より この曲が、シンガーソングライター(SSW)と言われだした最初の曲かと思い、一曲目にしました。 曲の内容です。 デヴュー・アルバムをレコーディング中に自殺して亡くなった幼なじみの女性Suzanne Schnerrについて語ったものだそうです。 また当時所属していたバンド(The Flying Machine)が空中分解してしまい,それが原因でひどいうつに悩まされたとも語っています。(およげ!対訳くん)より Fire And Rain 『つい昨日の朝、君が死んだことを知らされたよ スザンヌ、 彼らの考えたプランが君を死に追いやるなんて 今朝散歩に出て、この歌を書いたんだ、これを誰に贈ればいいのか分からないよ・・・・』(洋楽歌詞&和訳-おすすめの名曲•名盤)より 2.Eric Andersen Blue River Blue River 1972 エリックアンダースンは1943年2月14日生まれなのでジャクソン・ブラウンやジェームス・テイラー(共に48年生まれ)といったいわゆる70年代のSSW達より上の世代。 むしろ2才年上のボブ・ディランと同じウッディー・ガスリーチルドレンの一人。 アンダースンが代表的なSSWの一人として語られることが多いのは、この1972年の極めてSSW的な作品である『ブルー・リバー』が登場するまでは、広く知られていなかったからです。(アルカディア通信(西八王子バー・アルカディア発行))より ブルー・リバー 「苦悩の魂を全部投げ捨ててしまおうと 老人は川へ出かけていく 望みさえすれば何処へでもいけるんだ ただボートで漕ぎ出せばいい ブルー・リヴァーは流れ続ける 岸辺にそってどこまでも 深みに落ちたり闇に包まれたりしないように ・・・・・・』(趣味趣味音盤探検隊)より 3.Jackson Browne ROCK ME ON THE WATER Jackson Browne 1972 「使用前に広く浸透している」「Saturate Before Using」というサブ・タイトルが付いていますが、これはデビュー前にソングライターとして多くのミュージシャンに曲を提供して来た彼が漸く待望の自身のアルバムを出したという意味です。 ロック・ミー・オン・ザ・ウォーター 「皆さん方よ 周りを見回してごらんなさい どこにも標識だらけ 人は自分自身が注意するためでなく他人のためにそれを設置したんだろう 自分の家で行方不明になる人 もう捜し出している時間はない 壁は炎に包まれ 塔も崩れ落ちている 俺はここを去り 何とかして海に行ってみようかと思う・・・・・・』(みんカラブログ)より 米チャート成績は1972年8月5日73位初登場、大方のアメリカ人は、何を歌ってるか解らなかったのでしょうか。 4.Eric Justin Kaz Cruel Wind If You're Lonely 1972 エリック・カズは、1947年ニューヨークはブルックリンで生まれたシンガー・ソングライターです。 エリックの曲は、多くのアーティストによって歌われていますが、中でもボニー・レイット、リンダ・ロシュタットは特にエリックの多くの作品を歌っています。(来日公演のチラシを参考にしました)より 1972年、エリック・ジャスティン・カズ名義でリリースされた名盤"If You're Lonely"でソロ・デビュー。 淡々と語るように始まる歌詞は、戦場にかりだされた兵士と残された家族の悲しみを歌っています。(音楽千夜一夜)より Cruel Wind 『オヤジは、大好きな息子を亡くした。母さんは、まだその事を知らない「ボクは冷酷な風に巻かれた、ボクは冷酷な風に巻かれたんだ」・・・・・・・』(あいだにあるもの エリック・ジャスティン・カズ)より 5.JESSE COLIN YOUNG SONG FOR JULI SONG FOR JULI 1973 ジェシ・コリン・ヤングは、1941年米国ニューヨーク州生まれ。1967年にカリフォルニアに移住し、そこでずっと音楽活動を続けていましたが、今はハワイに住んでいるようです。 本名は「ペリー・ミラー」。(ミラージュスキンケアミュージック)より 彼は、家族と一緒に生活する場でレコーディングしたい為、自宅の隣にスタジオを作ったそうです。 元ヤングブラッズ。1969年に全米でベスト5に入った大ヒット「ゲット・トゥゲザー」で知られてます。 SONG FOR JULI 『これはジュリアのことを歌った歌なんだ 僕が言わんとしてしていることを歌にしたものだジュリアのための夢の歌なんだ ・・・・・』(名曲洋楽訳詞隊)より 6.TOWNES VAN ZANDT Waiting Around To Die Townes Van Zandt 1969 テキサス出身で、フォークやカントリーをルーツに持つタウンズ・ヴァン・ザント。その生涯を通して大ヒット曲はないにも関わらず多くのミュージシャンから今なお熱いリスペクトを受ける希有なシンガー・ソングライター。 世に並みいる自作自演歌手のなかでも、“伝説の”という形容を付け加えるべき男は、彼しかいない。 彼の作品「イフ・アイ・ニーデッド・ユー」をエミルー・ハリスとドン・ウィリアムスがデュエットで歌い、81年、カントリー・チャートで3位になった。 83年には「パンチョ・アンド・レフティ」がウィリー・ネルソンとマール・ハガードに歌われ、こちらはNo.1を獲得する。 カウボーイ・ジャンキーズというオルタナティブ・カントリー・ロックのグループと交流があったせいか、Cowboy Junkies Lament という曲も収録されています。 スティーヴ・アールがヴァン・ザントの熱心なファンでついにはカバー・アルバムの "Townes" を作ったりと、彼のファンであると公言しているミュージシャンもまた個性派ぞろいです。(ライナー解説より) Waitin’ Around To Die 『この汚い道はどこに続くのだろうか なぜ進んでいるんだろうか 博打や酒に明け暮れ、このまま流れるのか ただ死ぬのを待っているよりはいい・・・・・・・』(The Tune I Love So Well)より 7.Guthrie Thomas Traveling Man Guthrie Thomas 1 1975 ウディ・ガスリーは病を押してランブリング・ジャックを従えて、ニュー・ヨークからトパンガ・キャニオンを目指して放浪の旅を開始した。そしてこの二人は、 ガスリー・トーマスの父親に世話になったという、こうした因縁で、生まれてきた息子に"ガスリー"という名を付けた。 自主制作盤は、シンガー・ソングライター・ブームの静かな波の中で高い評価を受け、ガスリー・トーマスはメジャー・デビュー。 アメリカのマスコミは"噂のシンガー・ソングライター"と誉めたたえてくれた。彼に触手をのばしてきたのが、LAに居をかまえるキャピトル・レコードだった。 8.小坂忠 ありがとう ありがとう (1971) このアルバムは、細野晴臣が全面的に協力し、特にシングルにもなった「ありがとう」は、作詞・作曲・編曲:細野晴臣となっています。また、演奏にも、大滝詠一を除く、はっぴいえんどのメンバーが参加しています。 細野晴臣曰く「小坂忠のアルバムのモデルをジェームス・テイラーにしていて、二人で歌い方をよくコピーしていたら、レコーディングも同じようにやっていたら、ふたりともJ.Tになっちゃた(笑)。 どっちが歌っても同じようなものだろうと思っていたし、どっちでもいいじゃないって。でもミックスした後に、ぼくも気付いちゃって、ぼくの声の方が強いってことに(笑)。 この曲は、やっと自分の方法論が分かってきて、初めて”できた!”と思った記念碑的なものなんだよ」と 1971年10月31日 小坂忠アルバム「ありがとう」リリース 1971年11月01日 はっぴいえんどアルバム「風街ろまん」リリース(マジカル・ミステリー”ミュージック”ツアー)より |
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ベアズヴィル・レコード ベアズヴィル・レコードは1970年、ボブ・ディランのマネージャーだった設立者のアルバート・グロスマンが居住していたニューヨーク州アルスター郡のウッドストックで設立されました。 当初はアンペックス社へ原盤供給するプロダクションでしたが、グロスマンは自宅敷地内にスタジオを建設し、トッド・ラングレンをハウス・プロデューサーとして迎えすぐにレコード会社となります。 ディランが直前に行ったワールド・ツアーのバックバンドだったホークスのメンバー、ガース・ハドスン、リック・ダンコ、リチャード・マニュエルの3人が「ビック・ピンク」 とよばれる家で共同生活をしたのが67年になります。 結婚していたためグロスマン邸のキャビンに住んでいたロビー・ロバートソンを加えたディランとの「ベースメント・セッション」は 4月にははじまっており、10月末になるとリヴォン・ヘルムも参加。 ホークスはザ・バンドとなって68年7月に『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を発表しています。 ミュージシャンが創作活動に専念できる環境というコンセプトで、ベアズヴィルという地名をレーベルにまでしたグロスマンは最後までその地を愛し、 86年にイギリスに向かう飛行機のなかで帰らぬ人となりました。(record correct"errors"?)より 9.Bobby Charles Small Town Talk BOBBY CHARLES 1972 本名、ロバート・チャールズ・ギドリー。1938年2月21日、ルイジアナ州南部の街、アブヴィルでケイジャンの家系に生まれた。幼少期から、ケイジャン音楽を聴いて育つ。 彼の書いた曲はファッツ・ドミノ、ビル・ヘイリー、ドクター・ジョン、レイ・チャールズなど数多くのアーティストに取り上げられており、ソングライターとしての存在感を示し続けている。 プロデューサーはボビー・チャールズ自身とリック・ダンコにジョン・サイモン。バックにはエイモス・ギャレットを含むハングリー・チャックの面々、 ドクター・ジョン、ジェフ・マルダー、そしてロビー・ロバートソンを除くザ・バンドのメンバー達など、ウッドストック縁のアーティストがこぞって参加しています。 Small Town Talk (wikipedia)より 『小さな町の噂話さ。 他人のやることを受け入れられない。 嘘がはびこり人を惑わせる。・・・・・・』(つぶ訳@)より 10.Jackie Lomax Lavender Dream THREE 1972 ジャッキー・ロマックスはビートルズと同じ英国リヴァプール出身の作曲家でシンガー。地元でアンダーテイカーズというグループの中心だったが、 脱退後、アメリカにわたり、ロマックス・アライアンスを結成したものの不発に終わり、 英国に戻った。ジョージ・ハリスンの強力なバックアップがあってビートルズのアップル・レコードから69年にデビューしたことで有名。 プロデュースはジョン・サイモン、レコーディングスタジオがベアーズヴィル。(ライナーノーツ)より 11.JESSE WINCHESTER The Brand New Tennessee Waltz JESSE WINCHESTER 1970 ルイジアナ生まれのジェシが、何故カナダ出身でNY州郊外のウッドストックを本拠とするロビー・ロバートソンのプロデュースでアルバムを出すことになったのか。 67年23歳の時にベトナム戦争への徴兵令状を受け取ったジェシは、戦争に抗議し徴兵を拒否するためにカナダのモントリオールに移住。 カナダで曲を書きコーヒー・ハウスやライヴ・ハウスで歌っているところ、69年にロビーと知り合い、ロビーの援助によりベアズヴィル・レコードと契約しレコード・デビューを果たすこととなります。 77年に時の米国大統領カーター氏の特赦によって、アメリカ再入国を認められる。(鳥肌音楽 Chicken Skin Music)より 12.13.Neil Young Tired Eyes Tonight's The Night Part 2 Tonight's The Night 1975 1973年、ニール・ヤングはドラッグによって2人の友人を相次いで亡くしてしまいます。ひとりはクレイジー・ホースの中心人物だったダニー・ウィットン、もうひとりはCSN&Yのローディーだったブルース・ペリーです。 ニールは残されたクレイジー・ホースのメンバーであるビリー・タルボット、ラルフ・モリーナに加え、ニルス・ロフグレン、ベン・キースを集めると、二人を追悼する意図を持ったアルバムの制作に取りかかります。 メンバー全員がテキーラを飲みまくり、演奏が不可能になる寸前まで酔っ払った状態でレコーディングを敢行するという度胆を抜く作戦に出ます。しかも、録音はレコーディング・スタジオではなく、リハーサル・ホールで行われました。 ほぼ1日で10曲前後を録音した。 この作品はリプリーズによってオクラ入りを宣告されてしまいます。 約2年後、偶然このテープを聞いた彼の友人たち、中でもリック・ダンコがこの作品を気に入り、発売を強く進言。その結果として難産だったこのアルバムはようやく世に出ることになりました。(West Coast Rock 佐々木 実氏サイト)より 以上の13曲です。 反省点。 要素が多すぎました。説明がおっくうで、曲を多くしてしまいましたが、説明しないとやはり分かりにくいです。(Tonight's The Night を入れたのは、個人的に大音響で聴きたかったからです。すみません。) 内容が暗すぎました。時代背景が、ベトナム戦争最中で、アメリカ中がそんな感じだったとも思われるのですが、明るい曲も有ります。 しかし、アルバムの代表曲となりますと、こうなってしまいました。(Tonight's The Nightが追い討ちをかけてます。) やはり、こういった曲は、歌詞は分からないとよく解らないです。時代背景なども。何か、ペーパーが有った方が良かったとも思います。 今回の収穫は、「Townes Van Zandt」です。この企画で初めて聴きました。おもしろそうな人です。 あと、Guthrie Thomas のTraveling Manをえらく気に入られた方がジャケットの写真を撮られていかれました。意外でした。 TOWNES VAN ZANDT Waiting Around To Die http://youtu.be/h6JG-yE8UTw |
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2日目。 テーマが「JIVE!(ジャイブ)~1930〜50年代のブラックエンターテイメント」 JIVEとは、キャブ・キャロウェイやスリム・ゲイラードなど、笑いやエンターテイメントの要素を取り入れた音楽のことなどを指すが、もともとは初期のジャズやスウィング、それに合わせて踊るダンスのこと。 「JIVE TALK」とはミュージシャンはじめ JIVE 愛好家の間で交わされていた隠語。転じてわけのわからない話。また当時のミュージシャンの間でマリファナが好まれていたという噂もあり、マリファナを指す場合もあるらしい。(Happy Feet with Happy Musicジャズとダンスのこと)より キャブ・キャロウェイは、「The New Cab Calloway’s Hepsters Dictionary:Language of Jive」を1936年に出版、JIVE文化、そしてJIVE TALKを広めた中心人物。と、あまり知られていないジャイブミュージックの紹介です。 |
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選曲内容がこちら、 1.2.Joe Jackson Jumping With Symphony SidJack You're Dead Joe Jackson's Jumpin Jive 1981 ジョー・ジャクソン(Joe Jackson、1954年8月11日 - )は、イギリス・スタッフォードシャー、バートン・アポン・トレント (Burton-Upon-Trent) 生まれのミュージシャンである。 本名デイヴィッド・イアン・ジャクソン(David Ian Jackson)。 数年間続いたツアーで腺熱を患い、ポーツマスの自宅で静養していたジョー・ジャクソンは、スウィング・ジャズの発展形であるジャイブ・ミュージックのレコードを毎日のように聴き、回復後ジャイブに挑戦しその結果Jumpin' Jiveを1981年にリリース。(wikipedia)より 3.4.Cab Calloway St.James Infirmary Blues Minnie the Moocher Mr. Hi-De-Ho (1930-1931) キャブ・キャロウェイ (Cab Calloway, 1907年12月25日 - 1994年11月18日) は、アフリカ系アメリカ人のジャズ・シンガー、バンドリーダー。キャブはエネルギッシュなスキャット唱法の歌手として知られ、 彼のビッグバンドは1930年代初頭から1940年代後半にかけて、アフリカ系アメリカ人のバンドとしてはアメリカ最大級の人気を博した。(wikipedia)より 暗黒街に少々顔が利くアーヴィング・ミルズは、デューク・エリントン楽団の専属マネージャーとなって、同楽団をハーレムで有名な「コットン・クラブ」に専属楽団として出演させたり、レコーディングしたりと、その辣腕振りを遺憾なく発揮していた。 そのエリントン楽団が映画「ブラック&タン(1930年)」の撮影のため同クラブを休演することとなり、その後釜としてキャブ・キャロウェイ楽団がコットン・クラブの専属になることが決まった。 キャブは容姿に優れ、美声の持ち主であり、そのバリトン・ヴォイスは張りがあって艶っぽく、高く澄んだ歌声で聴衆を魅了する堂々たるヴォーカリストであった。 響き渡る声で朗々と歌ったかと思うと一変、今度は機関銃のような早口で迸り出るスキャット、軽妙なダンス・ステップ、オーケストラをぐんぐんリードして観衆を魅了する、正にエンターテインメントの真髄がそこにあった。 このコットン・クラブでの成功でキャブ・キャロウェイの名声は轟き亘り、人気バンド・リーダーとしての地位は確立されたのである。 ミニー・ザ・ムーチャー 『ミニーは鉄火肌のべっぴん、そのハートは鯨のよう。ミニーの情夫スモーキーはジャンキー(シャブ中)。二人でチャイナタウンの阿片窟に行き、どっぷりヤク漬け。スモーキーは稼いだ悪銭で、 ミニーに高級車、大邸宅、競走馬まで買い与え、すっかり“おねだりミニー”に吸い取られている。ミニーはスモーキーからかすめた100万ドルを悦に入って勘定している。 ハイディ ハイディ ハイディホー 』(ミントンハウス・店主 独白トラッドジャズについて重箱の隅)より 5.6.SLIM AND SLAM THE FLAT FOOT FLOOGIE CHINA TOWN MY CHINA TOWN 1938年に、スリム&スラムとしてのレコーディングの機会が訪れた。彼らの代表曲「フラット・フット・フルージー」である。 当初この曲のタイトルは、Flat Fleet Floosie だった。しかし出版社が、それじゃまずいってんで、Flat Foot Floogie に変更された。ちなみに「Floosie」は、「だらしない女」と言う意味である。 この曲が大ヒットした。ヒット・パレードで8週間1位をキープ。スリム&スラムのコンビは1942年まで続いたが、スラムの徴兵で解散することになった。(「レコード・コレクターズ」1986/1 VOL.5,No.1--------- 株式会社ミュージックマガジン 「スリム・ゲイラードの特異な“芸”」by 中村とうよう 「スリム・ゲイラードのLP」by 土山和敏 「スリム・ゲイラード・インタヴュー」聞き手:ダグ・ロング Cadence Jazz Magazine / 1985,July 「ブルース飲むバカ歌うバカ」吾妻光良著--------- 株式会社ブルース・インターアクションズ「スリム&スラム/コンプリート・レコーディング1938-1942」 ライナーノート by Alun Morgan )より 7.Fats Waller THE FLAT FOOT FLOOGIE live at The Yacht Club (1938) ファッツ(フトッチョの)・ウォーラー、本名トマス・ライト・ウォーラーは1904年から1943年 まで生きたアメリカの偉大なジャズピアニスト・オルガン奏者・歌手・作曲家・作詞家で、 わずか39才で早世しました。(アンクルポップのJAZZ名選)より 8.slim gaillard slim's jam root of vouty slim gaillard 1946 45年12月、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー等をフューチャーしてベルトーン・レーベルに録音を行なう。その一部が、のちにサヴォイに買い取られ、パーカー名義で発売された。(「レコード・コレクターズ」1986/1 VOL.5,No.1--------- 株式会社ミュージックマガジン 「スリム・ゲイラードの特異な“芸”」by 中村とうよう 「スリム・ゲイラードのLP」by 土山和敏 「スリム・ゲイラード・インタヴュー」聞き手:ダグ・ロング Cadence Jazz Magazine / 1985,July 「ブルース飲むバカ歌うバカ」吾妻光良著--------- 株式会社ブルース・インターアクションズ「スリム&スラム/コンプリート・レコーディング1938-1942」 ライナーノート by Alun Morgan )より 9.10.the Nat King Cole Trio Hit That Jive Jack On the sunny side of the street 1943 1930年代からピアニストとして活動。スウィング・ジャズ時代末期の傑出したピアニストとしての業績を残した。1939年にピアノ、ギター、ベースのシンプルな編成からなる「ナット・キング・コール・トリオ」を結成。 ビッグバンドの時代におけるコールの編成は革新的とみられ、トリオバンド流行の火付け役となった。(wikipedia)より 11.Stuff Smith Trio IsIs 1944 4大ジャズヴァイオリンニストの中でも一人異彩を放つStuff Smith。 1909年にオハイオ州で生まれた彼は、15歳からバイオリンを勉強、その後ニューヨークに出てバンドを結成、 1936年に行った初レコーディング曲がヒットし、40年代半ばにかけてニューヨークを中心に活躍。(越境するヴァイオリン)より 12.13.Louis Jordan and His Tympany Five You’er My Meat You Run Your Mouth And I’ll Run My Business 1940 1908年7月8日にアーカンサス州でパートタイムのバンドリーダーの息子として生まれた。7歳までにクラリネットをおぼえ、高校時代にはアルトサックスをマスターし、これが彼の生涯の楽器となる。 ルイ・ジョーダンは40年代初期にリズム・アンド・ブルーズを作り出した最大の功労者だった。彼は、大所帯のビックバンドを6人編成のコンボに縮小した。 また、彼はビル・ヘイリーと彼のコメッツのモデルであり、リトル・リチャードやチャック・ベリーの音楽と精神にインスピレーションを与えた。(シネシャモ日記 最初のロックンロール)より 14.Joe Carroll Nobody Knows 1951 ジョー・キャロルがバップ・ヴォーカリストとして名を上げたのは、 ディジー・ガレスピーとともに活動し、ジャズ漫談ともいえるパフォーマンスを繰り広げたからで、その録音はサヴォイ盤に残されている(after youby bunboni)より 15.Babs Gonzales Oop Pop A Da BABS GONZALES AT SMALLS PARADISE 1957 DAUNTLESS盤は「SMALL’S PARADAISE」でのライブでこちらにはGRIFFIN、PARLANの他にCLARK TERRY、BEN RILEY等が参加、ライブということで躍動感は更に増しバックメンバーのソロ・スペースも確保されている。 これぞ代表作と言えると思います。(深遠なるアナログ・レコードの世界へようこそ。)より コットン・クラブ (Cotton Club) は、1920年代の禁酒法時代のニューヨークハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。 客はすべて白人で、スタッフと演奏者は全て黒人(アフリカ系アメリカ人)であった。また、経営者はアイルランド系のギャングスターとして名の知れたオウニー・マドゥンである。 クラブの出し物は当時の黒人への偏見を反映して、黒人をしばしばジャングルの土人や南部農園の黒人("darkies")として描いた。 また露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールに対してはもっと微妙な選別を行った。黒人としては明るめの肌、20歳以下であることを求めたのである。 エリントンは白人の客のために「ジャングル・ミュージック」を書くよう期待されていた。タップ・ダンサーのビル・ボジャングル・ロビンソンとニコラス兄弟もクラブショーに出演していた。 1935年のハーレム人種暴動のあと1936年にしばらく営業を中断した。(wikipedia)より 16.〜Cotton Club Stars 1 Ella Fitzgerald Moon Ray 2 Cab CallowayGive, Baby, Give 3 Avon LongLiza4 The Dandridge Sisters Ain't Gonna Study War No More 5 Lena HorneHow Long Has This Been Goin On?6 Andy Kirk And His Clouds Of Joy Hip Hip Hooray 7 Lucky Millinder & Sister Rosetta TharpeRock Daniel 8 Louis Armstrong & The Mills Brothers The Song Is Ended 以上。20曲を超えていますので、現場では何曲かカットしました。 反省点。 やはり、要素が多すぎです。(バップボーカルものは無い方が分かりやすかったかも。) 当時のアメリカの状況(太平洋戦争の最中、黒人差別もまだまだ強く有った事など。)も伝わりにくい。 エンターテイメントなので、音だけでは解らない部分も有ります。 ですので、映像を少し紹介します。 CAB CALLOWAY & NICHOLAS BROS. - (Hep-Hep!) The Jumpin' Jive http://youtu.be/dMA5ahQmVfY?list=LLCDQZkRX6wB7GnqUYvpJu2Q Hellzapoppin' (1941) - Slim Gaillard & Slam Stewart - The Harlem Congeroos http://youtu.be/qrcZqnICYbs?list=LLCDQZkRX6wB7GnqUYvpJu2Q Betty Boop 1932 Cab Calloway "Minnie the Moocher" http://youtu.be/zhUCItCCQmQ?list=LLCDQZkRX6wB7GnqUYvpJu2Q 人に何かを伝える事の難しさを痛感しました。 では失礼します。 |