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Musica Popular Brasileira 日本橋店 渡辺正 |
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ラテン音楽の中でも自分ではブラジル音楽は別ものとしてカテゴライズしている。 これまでメルマガ誌上でも何度もサルサと言えばニューヨーク、ニューヨークと言えばサルサと、まるでサルサの伝道師、河村要助のように声を大にして言ってきたわけだが、大きなラテン音楽の枠組みの中で自分のど真ん中にあるのは、あくまでニューヨークで生まれ、ニューヨークのエリアで機能してきた、やけっぱちでがらっぱちに疾走するマンボやグァヒーラだ。 プエルトリコやその周辺からやって来てニューヨークの下町に住み着いた浅黒い肌の人達が鳴らす音楽は、時代の最先端のR&Bやロックの影響を受けてもリズムはマンボやグァヒーラなのである。 これが同じラテン音楽でもブラジルとなるとなんか違う。 極々簡単に言ってしまうとニューヨークラテンはクレイジーでブラジル音楽はマッド。 ニューヨークラテンは馬鹿過ぎて笑ってしまうがブラジル音楽には心に恐怖を感じる。 と書くとブラジル音楽に負の感情を抱いているような印象を与えてしまうが決してそんな風には思っているわけではない。 音楽を無理に文章で表そうとするとどんどん本質から外れてしまうのかもしれない。 ともかくプログレシブロックに狂気というタイトルのアルバムがあるがそれに匹敵、いやそれ以上に美しい狂気に満ちた音楽がブラジル音楽だと思っている。 前置きが長くなってしまったが本日はムジカ・ポプラール・ブラジレイロと呼ばれるブラジル・ポピュラー音楽についてお話します。 |
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僕がブラジル音楽を聴くようになったのは1990年あたりからだ。 その頃はと言うとバブル経済の真っ只中でレコードからCDへの移行も世界中で最も速やかに進み、CDがバカ売れしていて、旧譜の掘り起こしが盛んに行われていて、ワールドミュージックやレアグルーヴのムーブメントとも合致して、次から次へと新旧のありとあらゆる未知の音楽が紹介されだした頃だ。 80年代の終わり頃だったと思うが、クラブDJやヒップホップアーティストの間で過去の音楽を現在の価値観で捉え直すレアグルーブという概念が生まれた。 簡単に言うとダンスに適した乗りのある珍しい楽曲をクラブで流したりヒップホップの楽曲に使うということ。 ジェイムズ・ブラウン直系のファンクから始まり、ジャズやラテンにロックから映画音楽やイージーリスニングなどありとあらゆる音楽が掘り起こされ、ソウルやファンクなどダンスミュージック以外の音楽でも気持ち良く踊れることがレアグルーブの下で証明されてきた。 また、同じ頃にMTVに代表される肥大化したポピュラー音楽の商業主義のアンチテーゼとして、レコードショップのポップスやロックの棚割りに収まらない非西欧圏の音楽たちが堰を切ったようにワールドミュージックと称されて音楽雑誌やマニアックなレコードショップで紹介され出した。 ワールドミュージックとレアグルーヴはリンクし互いに影響を与えながら、バブル景気とCD時代の到来と言う時代の流れがムーブメントに拍車をかけた。 そんな時代の空気感からムジカ・ポプラール・ブラジレイロと呼ばれるブラジル・ポピュラー音楽(以降MPBと表記する)も、コアなブラジル音楽マニアではない自分も聴くようになった。 |
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BRASILIANCE! MPB(エミペーベー)とはボサノヴァがロックやR&Bなどを吸収しながら出来上がったポピュラー音楽である。 コアなブラジル音楽マニアでない僕がブラジル音楽をまともに聴いたのはジャイルス・ピーターソンが編集した最初のコンピレーション「Jazz Juice / Street Sounds」からだったが、その中に入っているマシュケナーダやアイアートのなんともすっとぼけているようなクールなような摩訶不思議な音楽にぶちのめされた。 1985年のリリースだったが僕が実際に入手して聴いたのはもう少し後で、ワールドミュージックやレアグルーヴのムーブメントの大きな波がやってきた1990年頃だった。 当時、YouTubeもないし、こんな音楽を聴くにはCDを買うしか方法が無かった。当時のカフェはボサノバでなくブラコンが流れていたし、少なくとも大阪では80年代後半はサルサやブーガルーが掛かるクラブはあったがブラジル物は皆無だった。 世界一速やかにアナログ・レコードからCDに移行することに成功し、バブル景気がまだまだ続く日本市場にはこの頃、ありとあらゆる音楽が集まってきた。 バブルによるお金の恩恵は受けた覚えがないが、今では考えられないマイナーな音楽家たちが企業の冠コンサートの一環で来日して、少しレコード屋と親しくなっただけで、そんなマイナーな音楽家たちのライブにレコード会社の営業担当の名刺を差し出すだけで関係者として入場させてもらえたのは、あの時代の恩恵としかいいようがない。 |
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1993年にレコード会社を数社跨いで10数枚リリースされた内海イズルと中原仁監修の「BRSILIANCE!」は圧巻だった。 このシリーズを聴いて僕のブラジル=サンバ=リオのカーニバルという単純な図式は崩れ去った。 「BRSILIANCE!」シリーズによって、バイーアという港町にリオデジャネイロを驚愕させる凄い音楽があることを知らしめたし、サンバに勝るとも劣らない芳醇なリズムがあり、複雑な国の成り立ちからヨーロッパやアフリカやアメリカの音楽の要素が幾重にも入り組み形成されていることを丁寧に教えてくれた。 このシリーズで特にお気に入りがエリス・ヘジーナという女性歌手。 ぜひ「ELIS REGINA/IN LONDON」というアルバムを聴いて欲しい。ヨーロッパツアー中のエリスがロンドンのオーケストラをバックに一日で録音してしまった傑作アルバムだ。 名曲Se Voce Pensaはうねりまくるベースと跳ねまくるピアノにギター群をバックに抜群のリズム感で歌う。 このパーカッシブなボーカルを聴くと昨今のボイスパーカッションはどうにも無粋なものに感じてしまうのは僕だけか。 高速で小刻みなリズムなのに、とうとうと流れる様な、とてもメロディアスな曲にも僕は聴こえる。 サルサにもファンクにもない機智と狂気を感じさせ、これこそが自分のイメージするMPBだ。 IN LONDONと同じく1969年にリリースされた「MARCOS VALLE/Mustang Cor De Sangue」も好きなアルバムだ。 第一にジャケットのデザインが格好良過ぎる。 ボサノバをよりポップに、グルーヴィーにしたアルバムで表題曲のオルガンが疾走しストリングスが絡む様は堪らないし、なかなか他では聴けないアンサンブルだと思う。 Side Aの5曲目Azimuthは後にブラジルの国民的英雄のレーサー、エマーソン・フェッティパルディのドキュメンタリーTV番組のBGMにも使われ、それはアルバムにもなった。 80年代までのアスリート然としなかった頃のスノッブなモータースポーツには絶対ジャズやブラジル物が似合う。 断じてロックではないと思う。 |
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当時新譜として聴いた「SERGIO MENDES/Brasileiro」のアルバム冒頭のFANFARRAからMagalenhaの流れにはど肝を抜かれた。 初めて知るサンバヘギというリズムだ。 この頃、今や売れっ子となったモンドグロッソの大沢伸一もクラブでここぞと言う場面でFANFARRAを良く掛けていた。 総勢100人以上の打楽器によるレゲエのニュアンスを少し混ぜたサンバヘギの強烈なリズムはクラブでのあらゆる流れを一瞬に変えてしまう力を持っている。 セルジオ・メンデスと言う人はその時々で一番格好良い音楽を選び取りプロデュースする天才であり、このアルバムではバイーアのカルリーニョス・ブラウンという若手パーカッショニストを起用している。 バイーアのディープなリズムを泥臭くせず、都会的でクールな音楽に仕立てるところがセルジオ・メンデス流なのだろう。 バイーアと言えばニューヨーク・パンク〜ニューウェーブ〜ノーウェーブのアート・リンゼイも幼少期バイーアで過ごしたそうで1996年にリリースしたアルバム「Mundo Civilizado」はバイーア音楽の空気が濃厚に注入され、アート・リンゼイが持つ廃退的で危険なキャラクターがMPBの気だるく切れが良い感覚や狂気と合致していて、聴けば合点がいく。 この時期のアートのライブにも行ったが、ブラジル的なものを期待して入った僕らはヒステリックでノイジーなアートのギターの前にただ棒立ちするしか無かった。 どこまでもアート・リンゼイらしいとやはり合点がいく。 最後にどうでも良い話で恐縮だか僕が小学生の頃、EXPO70大阪万博のお祭り広場で見た脳内の記憶とセルジオ・メンデスのライブアットEXPO70の写真が酷似しているのだ。 きっと僕はそのライブの現場に居たのだ、居た筈、居てたのではないか、居たことにしてしまいたい〜笑。 自分にとってメインストリームとしての音楽ではないがMPBエミペーベーはやはり格好良くて、不思議な毒と狂気に満ちていて、知的な感じのする音楽である。 |
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